自然科学書出版  近未来社
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地中の虹 −地下の世界を訪ねて−

はしがき

 本書の内容は,現代社会のかかえる放射性廃棄物処分の問題を,私の専門とする地質学および地下水学の視点から考察を加えたものである。現在,原子力発電所から生み出される大量の放射性廃棄物を地下に埋めて処分することが考えられている。それは果して安全であろうか。長い間には,放射性廃棄物中に含まれる危険な物質が地下水に溶け,地下水の流れで運ばれ,人間社会に戻ってくるかも知れない。それを防ぐことはきわめて重要な問題となっている。

 今,世界中で,放射性廃棄物処分の研究や技術開発が精力的に進められている。本書の執筆に当たっては,その研究,技術開発の現状と問題点を,私なりに整理して,出来るかぎり分かり易く報告することに心がけたつもりである。しかし,読み進められればお分かりのように,本書は,廃棄物処分技術の紹介のみを目的としたものではない。主な内容は,その廃棄物処分技術を考える視点から「地下水」の存在を捉えつつも,地下水のあり方をより広く問い直すことによって,我々人間の生活との繋がりをも明らかにしていこうとするものである。

 地下水は,廃棄物中の危険物の運び手としてのみ存在しているものではない。言うまでもなく地下水は,木や草を育て,清浄な水を与え,人々の生活を豊かにしている側面を強く持っている。地下水がなければ大地は渇き切り,木も草も育つことができないのである。 私は,人間の生活を豊かにする,このような地下水の存在意義を強くアピールしたいという考えに基づいて,本書の題号に「地中の虹」という表現を用いた。虹が空気中の水分による輝きであるように,地下の水分も,本書で繰り返し述べているように,人々の生活に輝きを与えるものなのである。

 いずれにせよ地下水それ自体は,廃棄物中に存在する危険な物質を運ぼうとも,人の生活を良くしようとも思っているわけではない。ただ,ありのままに存在し,自由に流れているだけである。それにどう関わってゆくかは人間の問題である。我々人間は,地下水とうまく付き合っていかないといけないのである。それでは,どう付き合って行けばいいのか。それを考えていくことが,私が本書を執筆する上での大きな動機となっている。

 しかし残念ながら,人と地下水との付き合い方は,まだ確立されたものではない。地下水のあり方には,まだ分からないことがたくさんある。その付き合い方を考える前に,地下水のことを調べなければならないのである。この本に書いた多くのことは,私の周辺にいる発想豊かな学生諸君とともに考え,取り組んできた地下水の研究の記録である。それゆえ私としては,読者と一緒になって,「将来の地下水との付き合い方を,放射性廃棄物処分の問題を例として研究する」という立場に立って,本書を執筆したつもりである。

 また本書では,説明上必要と思われる図や写真を多く使っているが,数式は全く使っていない。数式は,1つの表現手段である。他の,もっと分かりやすい表現手段があれば,あえて数式を使う必要はないと私は考えている。

 本書を執筆するに当たって,もう一点留意したことがある。それは,文章を一人称で書いたことである。「私はこう思った」「私達はこう考えた」という書き出しを,本書では意識的に多用している。一般に,自然科学書の執筆においては,そのような書き方は避けるべきであるとも言われているし,巷間出版されている書物の中で,このような書き方で全編を通して書かれているものに出会うことは,非常に少ない。

 しかし,研究は人が行うものである。一人の人間が何かを知りたいと思い立ち,自分自身であれこれと考え巡らし,手探りでもやってみる,それが研究である。そういった行為の積み重ねによって,自然のあり方を少しずつ理解していくものである。研究の成果を云々する前に,「何故,それを知りたかったのか」「知るためにどうしたのか」という過程こそが,きわめて大きな意味を持っているのである。つまり,研究者自身の意思が極めて大きな要素となっているのである。

 自然科学者や研究者は,決して無機的な存在ではない。また,そうであってはいけないと思う。それゆえ,私は本書において「私は,あるいは私達はこう考えた,他にもっと良い方法がありますか」という読者への問いかけを,文章の行間に置いたのである。つまり,自分自身の意志と心の動きを率直に書き表すために,あえて一人称を用いたと言ってもよい。また,一人称で書き表すことが,研究によって得られた結果や,それが社会の中で引き起こすかも知れない影響に対して,自分自身の責任をも明示することになるのである。原爆製造や公害の例を持ち出すまでもなく,研究者はそれらの結果に対して責任を持つべきである,と私は考えている。

 本書ではまず,地下水の基本的なあり方・概念について解説している。次いで,地下の岩盤中の地下水の流れについて,私が参加した国際研究プロジェクトを題材として取り上げ考察を加えている。ここでは特に,今日大きな環境問題となっている高レベル放射性廃棄物の地層処分に焦点を当て,処分技術についての考え方や現在残されている問題点についてまとめている。
 第3章では,地表付近の地下水の性質について,やはり,低レベル放射性廃棄物処分を例に取り,具体的に説明している。その中で,私が埼玉県下にある約100の古墳の構造を調査した結果に基づいて考察した「古墳に見る地下水制御の知恵」について報告する。また,古墳築造に関わった古代人の技術レベルの高さについても考えていきたい。

 さらに章を変えて,将来の技術として,庭園や公園の設計を行う上で考慮されなければならない「大地にやさしい景観」のアイデアのいくつかについて紹介する。これらの内容を通して,地下水の大切さ,そのあり方の面白さ,放射性廃棄物処分の技術開発という,現代的な意味における地下水の役割や重要性を理解していただければ幸いである。

 1992年12月
渡辺邦夫