自然科学書出版  近未来社
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文化財保存科学ノート

あとがき

 文化財を保護し,これを広く活用することによって,新しい文化創造の原動力にすることができる。中国・陜西省文物管理局外事処々長の李斌さんによると,中国陜西省では文化財の保存運動を展開する際に「文化遺産を守るという行為は,とりもなおさず,自分たちの先祖と子孫のためになること」と唱っているそうだ。文化財は祖先が創りだした文化の結晶であり,子孫が新しい文化を切り開いていくための羅針盤となるべきものだからである。

 文化財を後世に長く保存し伝えていくためには,美術史学・歴史学・考古学・建築史学・民俗学などの見地から調査研究をおこない,文化遺産として正しく評価することが必要である。文化財保護法では,歴史上・芸術上・学術上価値の高いものとなっている。その価値判断は,美術史学,歴史学,考古学,建築史学・民俗学などによる評価のほか,自然科学的な手法による価値判断も必要かつ重要な決め手になるはずである。また,この貴重な遺産は蔵の中にしまっておくだけでなく,広く一般に公開し,活用することも忘れてはならない。文化財はその保存と活用のバランスを保ちながら保存管理される。しかし,いかなる物体であっても,それは長い年月の間には風化し,やがて消滅していくものである。それゆえ,「文化財資料を模写し,模造することもその重要な保存行為だ」という考え方もある。

 文化財資料を保存し活用していくためには,保存環境の設定,あるいは安全な環境の保持などの観点から文化財資料の安定をはかること,そのためには文化財資料の状態の評価や風化のメカニズムの解明も重要になってくる。そして,これを果たすには自然科学分野からのアプローチがぜひとも必要になる。

 人間と環境,文化と科学など,学際分野の用語が飛び交う昨今である。かつては,研究分野はより専門的により細分化していったのだが,近年では専門的な知識だけでなく,学際的な知識が要求されるようになってきた。学際分野が重要視されるようになってきたあらわれである。そのひとつに保存科学をあげることができる。文化財の調査研究や保存修復のために自然科学の手法が,それも広く学際的な研究が求められている。単に,社会的背景がそうさせているのではない。美術史学・歴史学・考古学・建築史学・民俗学などの分野から文化財を対象にする文化財学は,その調査研究や保存修復のためには,自然科学分野との共同作業が欠かせないからである。保存科学が発展しつつあるのは,文化財保護と活用のために果たす役割が大きくなってきたこともあるが,文化財研究の内容が高度化してきたことも理由のひとつにあげられる。いわば,文化財学と保存科学の研究成果が相乗効果をもたらしてきたといってもよい。保存科学は,まだまだひとつの学問として体系化されているわけではないが,いずれ保存科学という研究分野が確立されることだろう。文化財保存のハイテク研究は,こうした保存 科学分野の体系化と決して無関係ではない。

 他方,文化行政執行の一端を担う,文化財補修の機能をもつ国立機関は,文化庁所属の東京国立文化財研究所と奈良国立文化財研究所の2所である。ほかに,国立民族学博物館,国立歴史民俗博物館に保存科学の組織が設置されている。しかしながら,これらの機関に所属する専門家の総数は,20人余りである。ヨーロッパはロンドン市内に,数多くの有名な博物館や美術館があるが,これらのほとんどの機関に保存科学研究部門がある。大英博物館,ビクトリア・アルバート美術館にはそれぞれ約80名の専門家がいる。その内訳は,自然科学者をはじめ,保存修理技術者,大工,旋盤工,塗装工といった面々が含まれている。彼らは,遺物の保存処理のみならず,その展示ケースや遺物の架台までも自分たちの手でつくりあげる。わが国の多くの新設美術館では,展示のすべてを業者に委託してしまうことが多い。その業者の数はごく少数に限られているため,展示方法が画一化されてしまうきらいがある。展示を見れば,どの業者に依頼されたのかがすぐにわかってしまうほどに,美術館の独自性が失われがちである。手づくりの展示もできないほどに,わが国の博物館・美術館の組織づくりが立ち遅れて いるというのは言い過ぎだろうか。わが国では,三大国立博物館でさえ保存修理のための施設が全く整っていないのが実態である。保存科学研究発展のためにはこうした組織・人員の問題を避けて通ることはできない。

 決して古くはない,わが国の保存科学の歴史の中で,その研究実績は国際的レベルにあると言ってよいだろう。研究成果は着実に結実し応用され,実用化している。しかし,この種の研究には終点が無く,次々と新たな成果を作り上げ,応用分野へと展開されていくべき性質のものである。不安定な状態ながら,文化財資料をそれ以上風化し,損なわれることのないように現状を保持し,その安定化をはかるのが従前の保存科学ではなかったか。すでに木材としての強度を失った出土品の建築部材に本来もつ強度を与え,その機能を再構築する試みや,弾力性を失った竹製品や硬くてもろくなった布製品に本来の物性をよみがらせる試みは,これからの「保存科学の新しい挑戦」である。

 本書は,遺構や遺物の保存修復に直面したとき,どのような哲学をもって,それをどう実践するか,その技術的手法を具体的に紹介したつもりである。それは,筆者一人の仕事ではなく,多くの諸先輩・同僚・友人のご指導を得てつくりあげてきた成果品である。

 本書の作成にあたり,ともすれば脇道にそれてしまいそうになる筆者の保存科学の歩み方を常に軌道修正し,適切な方向に導いてくださる田中 琢所長には,本書のために序文を賜った。また,関野 克,西川杏太郎の両先生には,保存科学の歴史的背景や基本的理念について有意義なお話を直接伺うことができた。衷心より感謝申し上げる。終始,親身のご指導と助言をいただいている佐藤昌憲先生をはじめ,増澤文武,三浦定俊の両氏,多忙の中,資料つくりに奔走してくれた同僚・肥塚隆保・村上 隆・高妻洋成・辻本与志一・松井敏也の各氏には言葉では言い尽くせないほどのご支援をいただいた。記して心からの御礼を申し上げる。

 1997年9月
沢田 正昭