自然科学書出版  近未来社
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予知と前兆 −地震「宏観異常現象」の科学−

はじめに

「静岡県防災情報研究所」(Disaster Prevention and Information Center, Shizuoka Prefecture,略称DiPICS;http://www.e-quakes. pref.shizuoka. jp)をインターネットで呼び出し,ホームページ上の「宏観異常現象」の項目をクリックすると,次の記事がディスプレイ上に現れる。

1.宏観異常現象とは
 大きな地震の前には観測機器に頼らず人間の感覚によって感知される前兆現象があることは広く知られています。井戸水に変化があった,異様な光や雲・虹を見たなどという話は昔からよく聞かれ,1944年の東南海地震の時には437件の宏観異常現象が記録されています。このような精密機器によらないでも感知できるような前兆現象を中国では「宏観(こうかん)異常現象」と呼んでいます。
2.宏観異常現象の特性
 過去の事例によると,宏観異常現象の出現パターンには若干の規則性が認められます。
先行時間‥‥
 前兆現象は,大地震の100日位前から異常が出現し始め,10日位前からは急増し,約1日前にピークに達するような傾向にあることが認められます。
出現距離‥‥
 前兆現象の発生する範囲は地震の規模に比例し,規模が大きくなるほど前兆現象の発生する範囲も拡大します。

 つまり,静岡県としては洋の東西・古今を問わず,大地震の前に人体感覚で分かるような土地変形,鳴動(地鳴り),動物異常行動,発光現象,地下水・温泉異常などが数多く報告されていることに注目し,そのデータを収集して地震防災に役立てようというわけである。

 1960〜70年代には,中国で大地震が頻発したが,その際上記のような現象が多数観察されて,中国語で「宏観異常現象」と呼ばれるようになり,また,この現象が大地震の予知や地震警報の発令に実際に役立ったとされた。この言葉はもともとは中国語であるが,日本語としても適当であるとして,日本でも用いられるようになった。英語では“macroscopic anomaly”と表記するのが普通である。

 日本でも宏観異常に関する報告は古くからあり,特に安政江戸地震(1855)の直前の報告例はきわめて多い。さらに時代が新しくなっても,報告例は数多く,関東大震災(1923)などに関連してきわめて興味ある報告事例がたくさんある。きわめつけは1995年の阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)で,無数ともいえる事例があるようである。

 このような状況にもかかわらず,宏観異常は科学的に研究されることはあまりなく,長い間いたずらに好事家のデータ収集にまかされていて,興味本位のマスコミ記事に取り上げられるにとどまっていた。1930年代には,高名な物理学者寺田寅彦などによって,科学的研究の対象として取り上げようという気運もあったようであるが,地震学の主流として取り上げられることはなく,いつとはなしに忘れ去られてしまった。

 1965年,日本の国家計画としての地震予知計画が発足したが,宏観異常については,データがあまりにも曖昧で,時として荒唐無稽であり,科学的研究の対象とはなり得ないとして,地震予知研究の正式項目として取り上げられることはなかった。しかしながら,1975年中国遼寧省の海城地震に際して,動物異常行動などの宏観異常現象が予知に重要な役割を果たしたことが報じられ,日本の国会でも「中国の学者を呼んで,予知して貰え」などという極論までとび出すという状況となって,宏観異常への対応もいささか変化してきた。

 1976年頃,「お魚博士」として有名な末廣恭雄東大名誉教授を中心とするグループに文部省科学研究費が支出されて,動物と地震との関係を調べる研究が行われるようになった。著者は地球物理学の立場からこのグループに参加し,既存のデータによって動物が異常な振舞いを示してから地震発生となるまでのいわゆる先行時間を調べ,若干の規則性があることを認めた。この研究は1978年のオランダElsevier社刊行の地球物理学専門誌「Tectonophysics」に発表されたが,この論文が日本における宏観異常現象研究復活の第1号となったと著者は自負している(Rikitake,1978)。

 その後もこの方面の研究は続けられ,大きな地震ほど遠くまで異常が出現すること,前兆は地震発生の100日くらい前から出現し始め,10日前から著増,1日くらい前にピークに達するなどという一般的傾向が認められるようになってきた。宏観異常を地震前兆とする場合の最大の難点は,データが地震とは無関係の「にせ」シグナルを含むことが多いことである。著者はこの「にせ」シグナル除去に工夫をこらし,適当な処理を行えば,宏観異常データも地震発生確率の算定,さらには震央やマグニチュード推定にまで役立つと考えられることを示した。

 ここまでの研究は主として,地震発生後の調査に基づくデータ・セットに依存しているので,真の地震予知とはいえない。今後は異常発生をリアルタイムでモニターし,新しい情報伝達手段,特にインターネットなどを通じて収集処理することが大切であることが予見されるが,静岡県防災情報研究所などの対応は,この方面に一歩踏み出しているとして大いに評価される。

 この本は,ようやく科学と呼べるようになってきた宏観異常現象研究についての最近の状況を述べ,国はもとより地方自治体や民間でも,この研究を助長したり,実際の地震防災に役立てることを願って企画したものである。本書の企画に当たっては親しい後輩である上田誠也東海大学教授の助言を得た。また刊行の実際においては,近未来社の深川昌弘氏に負うところが多い。両氏に感謝する。

 1998年7月10日 (財)地震予知総合研究振興会にて
力武 常次