自然科学書出版  近未来社
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大学をリシャッフルする −活性化への組織・行動改革

序に代えて 大学存続の危機に立ち向かう ――

国立大学の独立法人化と本書の提言との関係
 いま国立大学の独立法人化(以下,本書ではしばしば「独法化」と略記する)(注)が時間読みの段階に入っている。これは国家公務員の削減という課題とのからみでのことだが,具体的な設計図は,まだないという。
(注)「行政法人」という呼称は,大学や高校などの学校の実体を表すのには,不適切な言葉であり,「学校法人」のほうがよいと思える。だから以下では,「行政」ははぶく。

 本書での提言は,この設計図の一つでもある。
 この本での提言の主柱は,国立大学の独法化を機に,国大だけに限らず,これまでの総合大学を,専門大学化するのがよいのではないか,ということである。
 なぜ話が国立大学に限定されないかということは,つぎのように考えると,よく理解できる。つまり独法化の一つの大きなねらいは,既存の国大の「活性化」にある。このねらいの背後には,こんにちの国大が「沈滞」している(筆者に言わせれば,本文に入ってすぐに述べるような,多くの慢性病を抱えている)という現実がある。そしてこの現実は,国大だけでなく,それ以外の,ほとんどすべての大学に見られるからである。

たどり着いたトータル・イメージ
 読者の多くは,この序の表題(「大学存続の危機」)を見て,「ぎょうぎょうしい,エクセントリック,ジャーナリスティックだ」と思われたかもしれない。筆者自身も,三年前ならそう思ったにちがいない。けれども二年前に,この問題に首をつっこんで以来,しだいにこの感を強くしている。こうなっていったきっかけは,勤務先の名古屋市立大学経済学部で,教育と研究の改善を考えることを課題とする委員会の実質上の「リーダー」をやるはめになったことである。このリーダーの役割は,改善の方向と具体策のアイデアを考え出し,委員会内で提案し,OKが出たら教授会に提案するということである。
 最初のうちは学部内のことだけを考えていたのだが,やっているうちに,しだいに視野が広がっていき,日本のほとんどの大学が今かかえている問題点(筆者にはそう思えること)が,そして教育については大学教育との関連で,中学や高校の問題点までもが見えてくるようになった。
 そして虫が地を這うようにして,この本の原稿を書き終えてしばらくたった今,筆者の心は地を離れて,鳥のように空に舞い上がり―― と言っても,有頂天になったのではなく―― 書いた内容の全体を鳥観できるようになった(地を這っているときは,近くのモノの細部が見えるが,全体は見えない)。心がこんな状態になって湧いてきたトータル・イメージは,冒頭の表題のようなものなのである。その中身を,以下で述べる。

「環境が変わっても,我々は安全」
 本書では,一つの章を割いて,今後さらに進む少子化のもとで,このままいけば学生を集められなくなって,経営破綻に陥るかもしれない大学を「境界大学」とよび,そうならないための方策を論じている。なお「境界」とは,たんに存否の境界と言う意味である(経済学用語では「限界」だが,これでは経済学を知らない人には,意味が通じにくい)。だが,考えていくうちに,こうした境界大学(現時点で特定できるわけではない)だけではなくて,ほとんどの大学が,よほど努力しないと,早晩存続の危機にさらされるのではないか,と思うようになった。こうなる根本原因の一つは,大学をとりかこむ環境の変化にある。
 この環境変化の大きなものとしては,一つは経済成長率が,30年前までの高度成長期の10%台から,低成長期入り後の4%台へ,そして今後は「超低成長期」といえる二%台になることがある。もう一つは,前述の「少子化」である。
 今後のこうした厳しい環境下では,以前には「なにせ大学だから」と,大目に見て許されていたことが,許されなくなる。
 ところが大学人の多くは,あいかわらず,「我々は別だろう」と,たかをくくって,従来の思考と行動のパターンを変えようとはしない。この硬直性が,新しい厳しい環境下では,大学経営を破綻へと導くもう一つの根本原因となりかねないのである。これはあたかも熊や蛇が,冬が来ても,もし冬眠に入るという「環境変化への適応行動」をとらなければ,死んでしまうだろうのと似ている。
 こうならないようにするには,どうしたらよいかを考えることが,この本のねらいである。だが,その前提としては,前述の「硬直性」に気づき,これを変えようとする心の姿勢を持つ必要がある。そのためにも,本文では述べなかったことを,以下で指摘しておきたい。

神話が大学の存続を支えてきたのだが……
 大学が,今よりはるかに恵まれた環境下にいた頃でさえ,大学の存続を支えていたのは大学の努力ではなくて,大学をめぐって存在した神話だったのではないか,と思える。ここでいう神話とは,「真実ではないが,多くの人が真実であるかのごとく考えてきたことである。最近のニュースによると,聖徳太子の存在も,この意味での神話だった可能性がある。
 こうして神話はほんとうは真実ではないのだから,神話というものは,いつか,その化けの皮が剥がれる,という特徴を持っている。
 では大学についてどんな神話があったかというと,一つは「大学を出ていないと,社会に入ってから,なにかにつけてダメ」というのがある。けれども ―― 今でもこの神話の信奉者は圧倒的に多いとはいえ ,中学や高校を中退する人が増加していることで,この神話のバケノカワは,少しずつ剥がれつつある。というのはこの人たちは大学はおろか,中学や高校の意義さえも否定しているのだが,彼らのほとんどは,ちゃんと職業についているからである。
 また大学での教育にあきたらなくて,専門学校にいく人が増えていることも,その兆候だと言えよう。また大学生で,専門学校にいく人の多くは,大学での勉強はたいして役に立たないが,保険だと考えている(注)。この保険は,大学を出たことを重視する人が多いので必要になるものである。
(注)このことは,専門学校にとっては,新規事業開拓へのチャンスである。と言うのは企業は,    今後は職種別採用を考えているので,大学など外部機関による専門基礎教育を期待している。とこ  ろがこの点での大学の動きは,本文で述べる原因によって,ひじょうに鈍いからである。この点に  関連して,四月に新入生に「経営原理」を講義したさいの冒頭で,「君たちは,卒業までに,会社  のなかのいくつかの業務領域のうちのいずれかを選んで,その業務領域について自分でよく勉強し  ておきなさい」と話した。すると講義が終わったあと,男子学生が二人で部屋にやってきて聴くの  で,「今はまだそんなビジネス専門学校はない」と話したら,がっかりしていた。
 このような思考ラインに沿って,大学が着ているステータスのコロモを剥ぎとって,機能的に見ると,大学が今後よほど努力して『機能化』,つまり広義の社会への貢献力を高めていかないと,大学が専門学校にとって代わられる可能性もある。

神話に代わって存続を支えるもの
 以上で述べた神話は,日本の大学全体のこれまでの存続を支えてきた意味で,もっとも大きな神話だが,これ以外にも,名門一流大学をめぐる神話がある。それは,「そのような大学には,優秀な学者が集まっている」とか,「それら大学の出身者は,能力だけでなく,人間としても優れている」という,控えめに言っても「かなり神話に近いもの」もある。だが大学をめぐる環境が厳しいものになることで,大学という組織体レベルでも,また学者(教育者兼研究者)という個々人のレベルでも,これからは,広い意味での社会への貢献,つまり全体社会だけはでなく,その構成単位である納税者,学生,そして彼らが入る企業などにたいして,ほんとうに貢献できるかどうかで,その存否が決まるだろう。
 こうなると,前述した一連の神話は崩壊する。そしてこれに安住していた日本の大学界全体,そして個々の大学や学者は,行き場を失う。
 こんなことにならないようにするには,どうしたらよいか。この課題の一部に解決策を見出そうとして考えた結果,本書が生まれた。
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 書き終わったいま,考えてみると,私は大学に勤め始めて以降ずっと,大学というよりも,大学人のありように,なにか違和感を覚えてきたような気がする。これには私が,わずかの期間とはいえ,企業に勤めていたこと,また経営学者として,企業の方々と接触する機会が多かったことが影響していると思える。こうしたことが,大学のウチにいながら傍観者としてみるという姿勢−これは本書の内容に一種の客観性を与えただろう−を生み出した。だがその一方では,ある偏向(バイアス)も生み出したのではないかとも思う。
 ところで私は,もう大学生活にはくたびれはててしまったので,−ここ2,3年で「二度の勤め先」として二つの大学から誘われたが−,大学からはキッパリと足を洗うつもりである。だから本書で述べることには,私個人の利害は含まれておらず,この意味でも客観的だといえよう。
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 筆者が大学問題を考え,論述する機会は,これまで3回あった(注)。だが,それらは原稿を頼まれたので考え,書くという受け身のものだった。
 (注)「雑観・学者の仕事と業績」(『書斎の窓』1980年五月号,有斐閣),「大学教育の改革の   ために−組織論からの考察をもとに」(『経済評論』1983年12月号,経済評論社),「採用−   その実態と改善策〔事例研究〕」(『季刊中央公論・経営問題』1973年夏期号,中央公論     社)。

 自分からすすんで書いたのは,わが名古屋市立大学経済学部の機関誌『オイコノミカ』の1999年9月刊行分に「文科系会社員志向者への教育体制の適応〜〔他領域への経営学応用シリーズT〕」と題して載せたのが最初である。
 この論考を,何人かの友人や知人に読んでもらって,よい評価を得たことが,本書執筆への意志と意欲を生む原動力となった。
 なかでも伊東晋氏(有斐閣・書籍編集第二部部長),植谷忠昭(高校からの友人,医師,栗田猛氏(ナジック総合研究所所長,前朝日アーサーアンダーセン・ディレクター),田村新次氏(中日新聞社・論説顧問,前論説委員),富田恵美さん(本学部助手),野波雅裕氏(トヨタ自動車・グローバル人事部人材開発室長),則岡和雄(大学時代の友人,元日本ビクター常務),深川昌弘氏(近未来社)の方々が,それぞれのしかたで,私を支援してくださった。たいへんありがたいことであり,お礼申しあげたい。とくに深川氏には,この本を出すという大きなリスクテークをしていただいた。
 そして最後になってしまうが,これまでの私の考究活動を経済的に支えてくれた納税者のかたがたにも,心底から感謝したい。

  2000年5月15日
西田 耕三