自然科学書出版  近未来社
since 1992
 
地質・砂防・土木技術者/研究者のための
土砂流出現象と土砂害対策 

まえがき

 本の表題にある土砂害という言葉から人々は何を連想されるのでしょうか。土砂災害であれば,集中豪雨の場合に起こるような,がけ崩れや土石流による激甚な災害でしょう。もちろん,それは非常に深刻な問題であり,本書においても中心的なテーマの一つです。土砂流出は水,風,地震動といった自然力の作用によって陸地が削られ,その土砂が運ばれる自然現象を指しています。土砂災害は急激・大量な土砂流出が突如人間生活の場にまで及ぶことによってもたらされる災害です。土砂流出現象は,集中豪雨や地震などの強大かつ稀な外力が作用する場合に限らず普段にも生じています。普段に作用する外力は小さいものですから,結果として生じる土砂の輸送量は少なく,運ばれる土砂粒子の大きさも小さくて急激かつ激甚な災害をもたらすことはありません。しかし,土砂が特定の場所に貯まったり,特定の場所が削られて土砂流出の源となったりする場合,長年の間には,人間や環境に重大な影響を与えるようになることがあります。これらは土砂流出に関連する現象にともなう障害です。本書では,土砂流出にともなう災害と障害をひっくるめて土砂害と呼んでいます。したがって,本書の扱う テーマは土砂災害のみならず土砂害全体です。

 ここで,土砂害問題の今日的意義について少し考えてみましょう。21世紀の現在,人類は急激な人口増加,資源の枯渇,環境の悪化といった困難な問題に直面しています。これらの問題は人類の将来に対してあらゆる面で不安を投げかけていますが,河川流域の土砂に関わる状況(土砂環境)にも深刻な影響を与え,また,土砂環境の悪化が直接・間接に人間生活の将来に対する暗雲をますます厚くするように作用しています。例えば,特に発展途上国で著しい爆発的人口増加は,都市への人口集中をもたらし,インナーシティーと呼ばれる部分で河川敷のような低湿な災害危険地域での居住とそれによる環境悪化を余儀なくしている一方で,都市周辺の急斜面の丘陵部の無秩序な開発を促し,がけ崩れや土石流災害の頻発の原因となっています。劣悪な環境条件の場への人口集中は,程度の差こそあれ,日本のような人口増加のない先進国においても居住地の再編の中で起こっている現象です。昨今の日本における土砂災害にその具体例を見出すことができます。

 資源の枯渇は,当然,人口増加と密接に関連していますが,とりわけ食糧問題は深刻で,このことが山地・丘陵斜面の耕地としての開発を促し,表層土壌の流亡となって現れます。ある統計によれば,世界の耕地から毎年平均0.7%の土壌が失われ,このまま状況を放置すれば約150年で食糧が生産できる耕地の大半が無くなってしまいます。新たな耕地の確保と材木需要を充足するために森林伐採が行われ,世界で年々日本国土の1/3〜1/2に相当する面積の森林が失われていると言われています。最近は酸性雨による森林の枯死も懸念されています。森林の消失は斜面侵食を加速します。

 斜面の侵食現象は斜面下に住む人間に崩壊や土石流といった直接的な災害をもたらすのみならず,河川水系を通じての土砂流出の源となり,河床の上昇や貯水池・湖沼の埋没原因となります。河床の上昇は河川の洪水疎通能力を減少させて破堤・氾濫の原因となります。また,河床が周辺地盤より高い天井川と呼ばれる状態をもたらし,氾濫水がより激しく,より広域に災害をもたらす原因ともなります。

 貯水池の功罪については,最近喧しい議論がなされています。環境の観点から貯水池を悪とする意見の方が大きく取り上げられる傾向が強いように思いますが,水資源,洪水調節,発電等の機能の確保は今後も重要であり続けると思われます。貯水池は,しかし,土砂流出の経路を遮断し,土砂を貯えるという宿命を持っています。世界の貯水池はその貴重な貯水容量の1%を年々失っていると言われています。過度の土砂堆積は上記の貯水池機能を危うくし,貯水池より上流の河床を高くしてその地域の洪水危険度を増大させます。また,濁水の長期化や水質悪化をもたらす場合もあります。さらに,貯水池が土砂の流下を遮断すると,それより下流へは土砂が供給されなくなります。これによって,ダム下流の河床の低下や海岸への土砂供給の減少による海岸侵食が起こることがあります。貯水池の弊害を少なくし,貴重な貯水容量の持続を図る土砂管理は大変重要な課題となっています。

 土砂流出は自然現象です。人類の多くが生活している場は河川の氾濫原であり,長年にわたる土砂流出の結果として生み出されたものです。地球上における人類の隆盛は土砂流出現象無しではほとんど成り立たなかったかも知れません。人間は土砂流出と共存しなければなりません。人間は土砂流出システムの中で生活していますから,土砂流出システムの均衡が破れると害を受けます。現在では過度の開発によって従来緩衝地帯として機能していた部分がなくなり,システムのバランスが危うい状況になっています。システムを構成する要因の僅かな変動によっても害が発生するようになっていますから,害を最小限にする何らかの手立ては当然必要です。一方,人間が土砂流出システムに介在してシステムの均衡を破壊することは極力避けねばなりません。土砂流出システムとの共存を図るためには,システムに内在する数々の現象の機構(素過程)に精通し,システムの均衡ある制御・管理を可能にしなければなりません。本書では,土砂流出システムの構成,その素過程の機構と評価,システムシミュレーションおよびシステムの管理について論じたいと思います。もちろん,システムの全貌は複雑・ 多彩であり,全てを網羅的かつ詳細に論ずることは不可能であり,著者らが行ってきた研究を中心とする議論になることを断っておきたいと思います。

 2005年冬
高橋 保