自然科学書出版  近未来社
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内陸地震はなぜ起こるのか?

まえがきに代えて
 −1995年1月18日未明になって気づいたこと−

 1995年1月17日の未明,自宅で寝ていた私は,突然激しい揺れを感じた。これまで経験したことのない大きなものだった。とっさに,隣で眠っていた息子の頭に布団をかけた。そして,1,2,3と数を数え始めた。6つくらい数えたとき,さらに大きな揺れがやってきて,息子の頭あたりに,棚から花瓶がいくつか落ちてきた。
 「S-P time(初期微動継続時間)は6秒,震源距離50kmくらい。奈良あたりだろうか?」などと考えつつ,あわてて布団から出た。電気はつかないが,台所は,食器が落ちて割れて,足の踏み場もなさそうだった。リビングボードの上に固定していたスピーカーも床にころがっていた。幸い電池の入っていたラジオがあったので,スイッチを入れると,神戸で震度6ということ。全く予想もしていないことに愕然とした。

 これが,一般には阪神・淡路大震災と呼ばれている,兵庫県南部地震が起こったときの私の行動である。地震の専門家としての習性が見えるが,防災という面では失格であることがよく分かる。寝ている頭の近くの棚に花瓶を置いていたり,開きやすい食器棚をそのままにしていたり,重いものを高いところに上げていたり,問題点は数々ある。一般の方に,「関西でも昔は大地震が多発していたんです。これからもそれは同じです。」と地震の解説をしながら,自分たちの身に降りかかるとは思っていなかったのかもしれない。
 当時,私は,大阪府三島郡島本町に住んでいた。豊臣秀吉と明智光秀の山崎の合戦で有名な天王山の近くである。つくばの防災科学技術研究所に単身赴任していたが,その日は,連休明けで,自宅で寝ていた。正確にいうと,私は横になっていたが,眠っていなかったようである。そのため,あたかも待っていたかのように,揺れた瞬間に息子に布団を掛けることができたのだろう。どうして起きていたかはよく分からない。良い悪いの両方あるが,世の中には偶然とは思えないようなことが時々起こる。

 家の中を大急ぎで片づけながらも,阿武山地震観測所のことが気になっていた。
 私は,京都大学の理学部を卒業し,高槻市にある阿武山地震観測所で大学院時代を過ごした。たまたまポストが空いて,1983年7月に助手として採用された。日本海中部地震(M8.3)の余震が活発に起こっていた頃である。その後,縁あって1993年に防災科学技術研究所に移るまで,10年以上を阿武山で過ごした。この観測所は,1926年の北丹後地震(M7.3)をきっかけとして,地震の研究を進めるため,当時の地球物理学教室主任 志田 順が地元のご厚意を受けて1930年に設立した。以後長年にわたって,世界トップレベルの観測所として,地震学をリードしてきた。1995年当時は,近畿中部に12点からなる微小地震観測網を展開しており,神戸はその観測網の守備範囲であった。

 6時過ぎ,自宅の片づけもそこそこにして,阿武山へ向かった。車で家を出たまではよかったが,国道171号線へ出る交差点の信号が働いていないため,走っている車が途切れず国道へ出ることができない。5分以上待っただろうか? たまたま停電が終わったようで,信号が点灯し,何とか阿武山観測所へたどり着いた。
 浅田照行さんは既に到着していて,装置の点検をされていた。しかし,停電していないにも関わらず,記録装置が動いていない。停電時用の電源装置が故障しているようである。中川渥さんも私とほとんど同時に到着し,停電時用の電源装置をバイパスして,記録装置に直接電源を供給し,記録を再開することができた。といっても,私はただ後ろで作業を見ていただけだったように記憶している。
 阿武山地震観測所の微小地震観測網は,故黒磯章夫さんが中心となって作り上げたものである。1976年から稼働しているが,先進的な考え方を取り入れた,世界トップレベルの微小地震観測網であった。微小地震の観測において,1976年以前は,個々の観測点で,すすをつけた紙を針でひっかいて地震の波を記録していた(すすがき方式)。1976年頃から,観測点で地震の波を電気変換し,その信号を電話回線や無線で伝送し,集中記録する方式が全国的にとられるようになった。その中で,阿武山地震観測所のシステムは,志田 順以来の地震観測のプロとしてのこだわりが凝縮したものとなっていた。

 地震観測によって,最も重要なデータが得られるのは,大地震が発生したときである。しかし,大地震が発生すると,停電したり,電話回線が不通になったりして,記録が十分にできない可能性がある。そこで,伝送方式を電話だけに頼らず無線を併用すること,観測点側だけでなく集中記録側も停電時用の電源装置を装備することで,最悪の場合でも,最低限のデータは記録できるように設計されていた。停電時用の電源装置は,広さ二畳くらいの小屋の中に一杯のバッテリーと交流電源への変換装置からなっていた。コンピューターでオンライン自動処理も行われていたが,当時のコンピューターは数時間にわたってバッテリー給電できるようなものではなかったため,データレコーダーなどアナログ収録部のみがバックアップされていた。
 しかし,この苦心のシステムは,兵庫県南部地震に関しては動作しなかった。後から分かったことであるが,前夜に明石海峡で起こった前震の直後に,停電用の電源装置が故障していたのである。1976年の観測開始以来約20年間で初めてのことだった。そのため,地震で停電していないのに,電源が供給されないという皮肉な結果となった。いつ起きるかわからない大地震に備えて,停電用の電源装置を保守するのは,大変な仕事である。少しでも大規模な保守作業を先延ばしして経費(と労力も)を節約しようとするのが人の常であろう。しかし,自然はそれを許さなかった。

 そうこうしているうちに,故渡辺晃さんや片尾浩さんも到着し,関係者が揃った。テレビ等で情報収集するとともに,私は,防災科学技術研究所に阿武山地震観測所にいることを連絡した。すると,ほどなく,企画課長の小畔さんから連絡があり,政府調査団が出ることになったので,それに参加するようにということである。伊丹空港で合流するようにという指示だった。私は,ほとんど何もしないうちに,車で阿武山を後にした。
 しかし,通常なら1時間もかからないはずなのに,幹線である国道171号線は渋滞でなかなか進まない。萱野三平旧宅付近から豊中の住宅地へ入ったりして空港へと急ぐが,集合時刻に間に合わなかった。それなら兵庫県庁で合流するようにということで,神戸の中心を目指した。しかし,武庫川を下る付近でも大渋滞でほとんど進めない。1時間おきに現状を報告することになっていたが,100mも進まず連絡することもあった。
 それでも何とか国道43号線に入った。一部が倒壊した阪神高速道路3号神戸線に沿った幹線道路である。道路の中央に高速道路の高架橋があるため,その下で長い間止まっていることがあった。高架橋の柱はダメージを受けていることが一目瞭然であり,私は大きな余震が起こらないよう祈っていた。でも,周りの車はあまり気にしていないようであった。

 携帯電話がない時代にどのように防災科学技術研究所に連絡していたのか記憶にないが,兵庫県庁へは到底行き着けないことは分かったので,初日の合流はあきらめて,宿である神戸市北区のフルーツフラワーパークへ向かうこととなった。もう,すっかり暗くなっていた。西宮市の今津付近で,国道43号から北へ折れた。道路はところどころでこぼこだったが,何とか進むことはできた。私が走った道沿いでは,ところどころに崩れ落ちた家があった。公衆電話には長い列ができていた。関西学院大学の付近から住宅地へ迂回し,新幹線の高架橋が落橋している下をかろうじてくぐったりして,宝塚から宿を目指した。到着したのは,日付が変わる頃であり,結局,その日は調査団の人には会えなかった。
 防災科学技術研究所の三谷さんに連絡し,明日に備えて横になった。が,眠れない。当然だろう。ここですやすやと眠れるような地震の専門家はお引き取り願うべきであろう。ただ,すやすや眠れなくても同じことかもしれないが……。
 朝起きて以来,目先のことに精一杯で,どうしてこの地震は起こらねばならなかったのか,まともに考えていなかった。眠れぬまま,あれこれ今日一日のことを思い出したりしていたが,そのとき,頭の中にふっと浮かんだものがあった。一旦浮かんでみると,どうしてこれまで気がつかなかったのか,とても信じられなかった。

 前年の秋の地震学会で,私は,「長野県西部地震はなぜ起こったか?」という発表を行っていた。それは,地震断層の北側に水平な断層があり,それが地震前にゆっくりすべることにより,地震断層にひずみが貯まり,そのために長野県西部地震が起こったというものであった。
 兵庫県南部地震に関しても,同様の現象を示唆すると考えられる観測事実がいくつか報告されていた。自分で報告しているものさえあった。どうしてそれらが総合的に意味するところを今まで気がつかなかったのか信じられなかった。秋の学会での発表の後,長野県西部地震以外に例はないかと,色々と文献を漁っていたのだった。それにも関わらず,地元である兵庫県南部で起こっていたことを見落としていた。
 地震前に気づかなかったことが,私の気持ちを暗くした。しかし,仮に気がついていたとしても,それが,六甲−淡路断層帯で大地震が差し迫っていることへの警告などに結びついたとは到底思えなかった。この説は,その後マスメディアでも大々的に報じられたが,現在に至っても正しいかどうか決着がついていない。これまで気づかれていなかった新しいアイデアであるが,そのようなものが,その発表間もないうちに防災に結びつくとは考えられなかった。内陸地震の研究は,当時,それくらい遅れていたのである。
 いずれにしても,気づいたことを報告すべきと思い,ホテルで便せんをもらい,大急ぎで昨日一日見聞きしたことや上記の気がついたことをFAXで送った。なぐり書きのレポートだったが,防災科学技術研究所ではよく読まれたようであり,手書きの図は地震予知連絡会でそのまま報告されたと聞いている。

 これが,あの日の私の記録である。一人の人間として他にやるべきことがあるのではないかと言われるかもしれないが,これが私の進むべき道だと思っている。
 上記で「地元」と書いたが,実は私は兵庫県明石市で生まれ,高校を卒業するまで明石で過ごした。高台にあった高校の窓からは明石海峡を望むことができた。私は景色の良い窓際の席が好きだった。今思えば,野島断層を見ながら大きくなったようなものである。神戸の街も好きだった。地元の地震活動には,人一倍関心もあった。しかし……。

 本書は,その頃からの歩みをレポートしたものである。問題は依然として解決していないし,現時点では,あまり世の中の役に立っているとは言えない。思うことは色々あるが,それでも,バカがつくくらい楽天的な私は,世の中の役に立つようになる日がそう遠くないと信じている。そして,多くの若い人と一緒にその日を迎えたいと思い,本書を執筆させて頂いた次第である。そういう意図で書かれたものであることをご理解頂けると幸いである。

 本書は内陸地震に関する「教科書」ではない。「教科書」は,その時点で大部分の専門家が認めていることを記述するものである。残念ながら,現時点においては,内陸地震に関する定説ができるところまでは達していない。したがって,本書の節の内容は,私個人としては現時点では最も合理的なものであると考えているが,今後の発展によって変わる可能性があることを最初にお断りしておきたい。
 2008年11月

飯尾 能久