自然科学書出版  近未来社
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〈増補版〉地すべり地形の判読法−空中写真をどう読み解くか−

増補版の刊行にあたって

 私達が住んでいる地球は水の惑星と呼ばれています。水がなければ私達は生きて行くことが出来ません。人間だけでなく生きものすべての命は水に依存しています。この水を地球表面に最も大量に貯留しているのが海洋です。海洋は地球表面の70%を占めています。海洋での蒸発散,海流の変動の“ゆらぎ”が気候に変動を与えています。そればかりではありません,地球表面を覆う10数枚のプレートの動き,それに関連するマントルの運動もプリュームも水の存在が関わっているといわれています。まだありました,私達が何気なく使っている磁石,これを可能にする地磁気の存在は液体状金属からなる外核での渦流によると考えられているとのことですが,その地磁気の逆転はマントルの対流に起因するという考えがあります。そうすると,水の存在は地球過程のかなりの範囲に関わっているということになります。あっさり地球過程といいましたが,これは地球の核から地表面,および大気圏全体で進行している全てのプロセスを意味しています。ただ地球過程には“ゆらぎ”があります。“ゆらぎ”は地球だけの要因で生じるだけではなく,太陽系の全体の過程にも依存しています。それらの“ゆらぎ ”−地球あるいは太陽系にとっては小さい“ゆらぎ”が,私達,命あるものにとっては厳しい自然災害となることも少なくありません。

 話が広がりましたが,地すべりはこれらの過程でどのように位置づけられるのでしょうか。地球過程のなかで造られた地殻,その隆起と山地の形成,それを構成する岩体の風化−削剥−運搬−堆積−地殻とマントルの再構成といった過程の一角に位置づけられるのは明らかです。この過程に水が大きく関わっていることはいうまでもありません。日本列島は1500万年前頃までは,大陸の縁辺部,現在は日本海という縁海を挟んで太平洋に面し,太平洋プレートやフィリッピン海プレートが沈み込む島弧となっています。これに加えて,ヒマラヤ山脈と日本列島との位置関係から,初夏には梅雨前線と呼ばれている寒気団と温暖湿潤気団とのせめぎ合い,さらに太平洋の海面温度との関係から発生する台風と偏西風との位置関係からこの列島が台風銀座となるなど,日本列島は世界の中でも最も厳しい地球過程の“ゆらぎ”の集中場となっているのではないでしょうか。

 本書初版の上梓後,たかだか10年間でも,私達は矢継ぎ早に大きい災害に見舞われました。2008年(6月14日)岩手・宮城内陸地震,この地震によって荒砥沢地すべりが発生しました。この増補版でこの地すべりを事例としました。2009年7月中国・九州北部豪雨災害,そして,2011年3月11日には東北地方太平洋沖地震・津波によって死者・不明2万2千人を越える未曾有の大災害,加えて津波によって電源を失った原発の大事故がまだ後を引いています。この年はさらに8月の台風12号による豪雨災害,とくに紀伊半島では深層崩壊が多発,明治22年の十津川災害以来の大きな被害をもたらしました。2013年には10月16日台風26号による伊豆大島豪雨による土砂災害,2014年8月20日広島豪雨により多発した崩壊・土石流が沖積錐に立地していた住宅街を襲いました。その一ヶ月後の9月27日には御嶽山噴火,この山が活火山であることを知らず,火口周辺に登山していた多くの人々を火山弾や噴煙が襲い,大きな災害となりました。2015年9月には台風18号が観測史上初めて岩手県沿岸に上陸,河川敷に立地していた老人施設に住む方々が洪水によって亡くなりました。2016年5月14日,16日熊本地震災害,この地 震では益城町で二日ともに震度7を経験,しかも二回目は深夜のため倒壊家屋の下敷きになった方が多く,大きな被害を受けました。2017年7月5日九州北部豪雨では斜面崩壊,洪水と大量の流木による災害,とほぼ毎年のように大きな自然災害が日本列島で発生しています。

 この列島に住む人々は,このような自然環境に住んでいるためか,自然の中で“しなやかに”生活するすべを身につけていたはずでした。しかし,最近は自然の条件を,より端的に言えば,地形を無視して開発された場所であることを知らずに住み,日頃の生活を営む人が多くなったのではないかと,私は危惧しています。旧ソ連が存在していた時代に,北極圏の氷を溶かして−つまり地球を温暖化して−広大な北極圏を活用しようという計画を,あるメディアで目にしたことがあります。これは,温室効果ガスによる温暖化が問題になっている昨今,完全に忘れ去られました。もしも,そのように温暖化すれば南極の氷床も融けて,洋上の島々や海辺に発達している都市は水没,洪水,津波の危険にさらされるでしょう。

 “しなやかさ”は,どうやら島弧や洋上諸島,海岸,急峻な山地や高原など厳しい自然環境の中で生活している人々が共通に身につけている基本的な精神的底流のように思えます。人類は活動の範囲を,やがては地球から外の宇宙空間へ,今日以上に広げていくでしょう。その空間の過酷さは地球上の比ではありません。“しなやかさ”がさらに必要になるに違いありません。その場合にも自然をよりよく知ることが“しなやかさ”を発揮する基本ではないでしょうか。

 地すべり地形の判読も自然をより良く知ることの一環であると,私は考えています。それは,いいかえると,対象とするもの−ここでは地すべり−をより正しく,より深く知って,“しなやかに”地すべりに対応するための一道程(最も基礎的な)であると考えます。地すべり地形を観察する場合に大局を見失ってはいけません。しかし,同時に一見小さい事象でも大きな問題・変動に発展する前兆現象かもしれない場合があります。したがって,地すべり地形のちっぽけな変状と思われるようなものであっても,全体の中での,一つの構造体の中での位置づけを明確に理解することが必要です。本書の初版でも,この視点を貫いて記述しましたが,この増補版でも,この視点を踏襲しています。あるいは,さらに押し進めたつもりです。科学には終点はありません。地すべり地形の理解にも終点はないでしょう。より良く,より正確な地すべり地形の理解に一歩一歩進むのが最善ではないでしょうか。

 “しなやかに”災害を防ぐ,あるいは,軽減するには施設を造ればそれで終わり,ではないと考えます。その場所に住んでいる人々が災害時にその状況を理解し,把握して,その場,その時の状況に対応出来ることが必要と考えます。その場合に何を手掛かりとして判断すれば良いでしょうか。その場所の地形がどのようにして出来たかを知っておくこと,地すべりに関していえば,地すべり地形を理解することが基本であると考えます。

 この増補版に加えた「最近10年のユニークな地すべり」として取り上げた3事例はそれぞれ特徴ある事例です。荒砥沢地すべりはすべり面がほとんど傾斜を持たない,通常では変動し得ない地すべりです。低傾斜のカルデラ湖成堆積層にしばしば見られる巨大な地すべりの発生は地震動によるという仮説が実証された事例でもあり,また,そのような地すべりが有史以前の地震の記録者である可能性を示した事例でもあります。山坂地すべりと乙石地すべりは230 Ma(三畳紀中期)〜160 Ma(ジュラ紀後期)に変成作用を受けた古い変成岩体で,しかも118 Ma(白亜紀前期の後半)に花崗岩の貫入によって熱変成を受けた岩体のためか,地すべりの稀な地域で発生した地すべりです。地すべりが発生するには,何か特有の素因が隠されているはずです。地すべり地形の判読から素因を明らかにしたいものです。上のような観点から付け加えた事例が皆さまにとってお役に立つことを希望しています。

 2018年 春分の日
大八木 規夫