自然科学書出版  近未来社
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都市大災害 阪神・淡路大震災に学ぶ

はしがき

 この本の原稿の執筆を開始した日は,阪神・淡路大震災からちょうど6ヶ月経過した7月17日であった。6月末に兵庫県や神戸市などの被災自治体の復興計画が相次いでまとめられ,その骨子が全国紙で広く紹介された。それらの事業の目標達成年次は西暦2005年頃である。いよいよこれからの10年が本番である。神戸市の復興計画に少なからず関与した私は,いま少しホッとした気分になっている。6ヶ月前が遥か彼方に感じられるほど密度の濃い時間の連続であった。2月末に,文部省の在外研究で,インドネシアのバンドンにある公共事業省水工研究所に数日滞在していた。その時,神戸市からファックスで送られてきた復興ガイドラインの資料の多さに度肝を抜かされたことがなつかしく感じられる。

 私にとってもこの震災は生涯忘れられないものとなった。それは,想像を絶する被害の大きさゆえである。無我夢中で行った数十回の現地調査や毎週のように開催された被災自治体の復旧,復興委員会への出席などという超多忙さも初めてである。しかも,この震災前に不可能と考えていた,私が行った都市災害と巨大災害の研究成果の妥当性の検証が一気に可能になった。この震災で得られた情報に基づいて研究するべきことは多い。しかし,研究成果を社会に直接還元して,一刻も早く都市防災に寄与することも大事である。なぜなら,まず,プレート境界型海洋性地震である東海地震や南海地震の発生はそれほど遠くない時期であることが挙げられる。もっと正確に言えば,前者は地震の空白域に対応したものであり,前兆現象がいつ現れてもおかしくない。後者の発生は,2015年前後と予測されている。次に,内陸地震として南関東地震を起こすような活断層は,断層毎に活動度が相違するが,全国至る所に分布していることに問題がある。このような断層が無数にあるので,前回動いた時期が広範囲に分布するはずであり,今回動いた野島断層を除いて,どこかの断層が次に動いてもおかしくはない 。とくに,今回の兵庫県南部地震によって,南海地震の活動が近畿地方のどこで起きるかが心配の種となっている。そのように考えると,研究推進と研究成果の還元のどちらを優先するのか,そのジレンマを震災後,いつも感じるようになった。焦ってはいけないと自分自身に言い聞かせながらも,時間の絶対量の少なさを嘆いてきた。
 
 私が自然災害全体を対象とする災害論の研究を始めてほぼ10年経過している。それ以前の約10年は,漂砂(海岸の砂や礫の移動現象)と海岸侵食を中心として,高潮,津波,洪水などの水災害の発生のメカニズムを研究してきた。このハイライトは,現地海岸で荒波浪時の漂砂量計測に初めて成功し,理論結果とよく合うことがわかったことであった。自分なりに苦しかった10年がやっと報われた感じであった。そして,長年の夢であった飛砂,流砂,漂砂の力学機構が統一的に取り扱えることが証明されたわけである。理論としての骨格は完成し,残された細部のメカニズムの追求をやるには,外力としての波と流れの場の正確な記述が必要であり,残念ながらそれを待つほど時間が潤沢にあったわけではなかった。そして,実用性を考えたエンジニアリングの立場から,不惑の歳を目前にして確かな自立の自信が芽生えたとも言える。

 その後,一方では海岸侵食制御,津波,高潮防災などの水防災に関する研究をやりながら,他方で災害論の研究を行うという,二足のわらじを履くことになった。災害論の研究目的は,被害をできるだけ少なくし,復旧を早めるという減災の実現である。まず初めは巨大災害の復元であった。具体的には1854年の安政南海地震津波による大阪の災害の復元である。この研究の動機は,ある論文に書かれた来襲津波の高さが少し高すぎて,本当に信頼できるのかという疑問であった。この研究では,古文書や絵図などの史料の解析とコンピューターによる数値計算結果から,大阪に高さが約1.9mの津波が来襲して,名前が判明した人だけでも約千名死亡し,その被災過程も復元できた。大阪生まれで大阪育ち,しかも現在,大阪に住んでいる私にとって,このような巨大津波災害が過去にあったことを知ったのは大変な驚きであった。大阪を襲った昭和の三大高潮災害について,死亡確率の変化の原因を検討したことはあったが,それ以前の地元の歴史災害を何も知っていなかったことを恥ずかしく思った。この過程で,社会の防災力を定量的に表すことが一番重要であることに気がついた。なぜなら,これがで きないと災害の危険性の変遷と予測を議論できないからである。江戸時代と現在とではどれくらい災害に対して安全になっているのか,この指標がなければ比較ができない。それまでは,言葉による定義しかなかった。しかし,この研究は,自然災害に対する私の総合的な理解を試すかのように,大変難しく,その進展ははかばかしくはなかった。結局,防災力の指標として,私たちの平均寿命が最も優れていることを見つけるのに2年を要した。このとき,災害研究には学際領域の知識が必要なことが身にしみてわかった。

 さて,1987年2月3日から4日にかけて北九州市沖の白島石油備蓄基地で,8月30日から31日にかけて新長崎漁港で,いずれも水深20m以深のところに設置された巨大なコンクリートケーソン(函)製の混成堤が暴浪で決壊した。別の機会に詳しく解説する機会があると思うが,わが国では海底に石を盛り上げて(捨石マウンドと言う),その上にコンクリート製のケーソンを設置するタイプの混成堤が多用されている。これはひとえに防波堤を作る大きな石が不足しているからであると言われてきた。しかし,考えてみれば全国の城郭には,当時どこから運んだのかと感心するくらいの大石が大量に使われている。この説明には何となく納得いかないものがずっと残っていた。これらの災害をきっかけにして文献資料の解析を徹底的に行った。その結果,混成堤多用の本当の理由は,明治時代に各国から招いたお雇い技師による,1887年から始まった横浜築港の工法に関する確執の結果であることが判明した。政治的に判断された結果が現在まで続いているという信じられないものであった。防災技術の移転に伴う問題が,わが国の明治維新当時に起こっていたのである。このとき,京都大学大学院の講義『海岸 ・海洋構造物論』で,波力を担当していたことが,防波堤工法の原理に関する深い考察を可能にした。防災技術の変遷については,その技術の原理を正確に理解できることが必須であり,そのために自然科学系の研究者こそが,この分野で大きな仕事ができるような気がした。

 これらと並行して,わが国の第二次世界大戦後の自然災害の変遷についてもまとめてみた。それは,本当に社会の防災力が大きくなり,被害が減ってきたのかということを調べるためであった。そして,近年の土砂災害による死者数の増大がなぜ起こっているかを知ることも1つの目的でもあった。近年のどの年の「防災白書」にも,土砂災害による死者数の多さが特記されている。しかし,わが国で都市化が急激に起こった1970年代にこれが頻発するのはわかるが,それが落ちつき始めた1980年代後半にも多いのは理解できなかった。資料解析をするうちに,次のことがわかった。何のことはない,戦後15年くらいは死者が千人を超えるような風水害が連年のように続き,死者数が氾濫水害に比べて相対的に少ない土砂災害が,単に隠れていたにすぎないことがわかった。土砂災害危険地帯が相変わらず多く,そこに大雨が降れば土砂災害が発生しているのである。1993年の鹿児島災害はその典型である。このように,災害の歴史をたどることは,現在起こっている災害の特質を理解するために必須であることがわかる。

 この本でも後で触れるが,歴史時代における自然災害による総死者数は,千人以上の巨大災害によるもので大半が占められている。したがって,巨大災害の減災を図れば,長期的には自然災害による犠牲者が随分少なくなることになる。たとえば,過去100年間で地震による死者数から関東大震災による死者数を引けば,わが国では地震災害は洪水災害に比べてかなり安全な災害になる。そこで,巨大災害の歴史を辿ることになったわけである。そして,わが国ではもう死者が千人を超えるような自然災害は発生しないのかどうかという問題がいつも頭の片隅にあった。確かに経年的には自然災害による死亡確率は減少しており,将来そのような災害は起こらないのではないかという結論をもっていた研究者も決して少なくなかった。何しろ,1982年の長崎豪雨災害以降,1つの災害による死者が300人以上になった災害は起こっておらず,百万人以上の大都市に限っては,1959年の伊勢湾台風高潮以降発生していない。もちろん,1978年施行の大規模地震対策特別措置法によって,地震観測強化地域に指定された東海及び南関東地方では,いずれも巨大災害になることが懸念されている。しかし,前者は地震予 知ができ,事前に防災対策が有効に働くという期待感,後者はまだ起こらないという変な安心感があり,日常的には地震の発生がほとんど忘れ去られ,まるで他人事のようになっている。

 しかし,よく考えてみると,近年わが国で自然災害による犠牲者が減ってきているのは過去の被災の学習効果のお陰である。これは,二度と同じ災害を繰り返さないという災害対策基本法によるところが大きい。逆の見方をすれば,この学習効果のない災害については,被害が極めて大きくなる危険性があることに気がつく。私はこれを非免疫災害と名付けた。そして,学習効果が期待できないのは,大都市であり,そこでは都市化によって社会構造が大きく変化している。その上,過去30年以上にもわたって,幸運にも大災害の空白期が続いている。もし,大都市で異常な自然外力が来襲すれば,大半の住民やそこで働く人々にとって初めての経験になるわけである。しかも,100年から数百年,時には千年以上に一度しか起こらないような極低頻度災害で,かつ近代に入って以来発生していない災害は,自治体にとって想定外の災害となっている。そのため,もし発生すれば,自治体はもちろん住民にとっても,まさに青天の霹靂の如き災害となるわけである。私はこのような理由から,わが国では今後,巨大災害は大都市で起こると1980年代の後半に確信するようになっていた。1990年から国際連合の『 国際防災の10年』(International Decade for Natural Disaster Reduction, 略称IDNDR)が始まった。私はこれと軌を一にするが如く,都市災害の研究を本格的に始めた。そして,その中途で阪神・淡路大震災が起こったのである。

 そこで,本書では,この大震災でいみじくも露呈した都市災害の実態を踏まえて,私が行ってきた都市災害,巨大災害の研究成果を紹介する。まず,第1章では,今後の自然災害が大都市で多発し,都市災害が21世紀の自然災害の中心に位置づけられることを述べる。そして,都市災害の一般的特徴を紹介する。第2章では,社会環境の変化にともなって災害の発生過程や被災形態が変わるので,この災害の進化の特徴を示すとともに,都市を生きものと考える仮説の根拠を与える比較災害論の成果を紹介する。第3章では,歴史的な巨大災害の実態とその復元の例を明らかにする。第4章では,私たちの社会の防災力の評価方法を紹介する。第5章では,巨大都市災害の特徴と被害巨大化のシナリオを示す。第6章では,生体防御と都市防災とのアナロジーから,都市の防災システムに関する試論を展開する。そして,最終章の第7章では,阪神・淡路大震災で露呈した種々の課題と提言を紹介する。

 1995年11月15日
著  者