自然科学書出版  近未来社
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災害地質学ノート

まえがき

 最近のわが国の自然災害を振り返ると,2017年7月に九州北部豪雨災害,2016年に熊本地震災害,2014年に広島豪雨災害,2013年に台風26号による伊豆大島豪雨災害,2012年に梅雨前線による阿蘇の豪雨災害,2011年に台風12号による紀伊半島豪雨災害,と毎年のように自然災害が発生してきた。その間,ネパールでは2015年にゴルカ地震による大きな災害が発生した。これらは,いずれも山間地と都市近郊を襲い,甚大な被害を引き起こした。豪雨災害や地震災害というと,雨と地震の災害と受け取られるが,実際には,これらによって引き起こされた地すべりや斜面崩壊などの災害が甚大な被害をもたらす大きな要因であった。そして,このように毎年のように自然災害が発生していることや,地すべりなどの災害が大きな災害要因であることは,1998年に「災害地質学入門」を執筆した当時も同様で,その前書きにも書いたことである。一方,こうした自然災害の軽減のために,土砂災害警戒区域の指定や,緊急地震速報や土砂災害警報の発信など,様々な施策が次々に整備されてきた。しかしながら,自然災害そのものを理解していなければ,こうしたシステムの情報を活かし,改善し,また,新たな 災害軽減方策を考え出していくことが難しいという状況は変わっていない。

 地すべりや斜面崩壊を適切に理解し,災害軽減に結びつけるためには,地質学,地形学,砂防工学,地盤工学といった様々な分野の考え方や手法の結集が必要である。これらの分野を背景とする人たちが牙城にこもって不干渉になったのでは,目的に到達することはできない。本書は地質学を背景としているが,それに籠ることなく,できるだけ関連分野と繋がるような内容にしたつもりである。どこかで災害が発生した時には,そこがどのような所なのか,地盤の中はどのようなものなのか,ということをまず知ることが,その発生原因の究明や2次災害の防止に必要である。その上で,力学的現象である地すべりや崩壊のメカニズムを解明し,それに対処することを考えていく必要がある。ある場合には危険を避ける,つまり長期的な土地利用計画を策定する段階で危険を避けたり,緊急に対処することになろうし,ある場合には,斜面保護のための工事や砂防ダムの建設などを行って積極的に対処していくことが妥当であろう。本書が,こうした判断を行うための一助となり,また,新たな研究や実務の発展の役に立てば,大変うれしく思う。

 私は本書のタイトルを『災害地質学ノート(A note for geohazards)』とした。英語のgeohazardsは,災害を引き起こすような急激な地質現象のことであり,そこに人間や社会がかかわらなければ社会的な意味の「災害」にはならない。そのため,その訳としては,地質災害というよりも地質ハザードと言った方が良いかもしれないが,日本語の「災害」には自然現象の意味合いもあると思うので,「地質災害」および「災害地質学」の用語を用いることにした。

 本書で主に扱うのは斜面災害に関連した内容である。地質災害は広い意味をもっており,その中には,いわゆる斜面災害の他に,火山活動によるもの,地震活動や断層活動によるものも含まれる。ところが,後2者については,既に火山学とネオテクトニクスという立派な学問領域が確立されているのに対して,斜面災害については,未だ途上という感が強い。また,地質災害には,地盤の液状化や地盤沈下も含まれるが,これらは土木工学の領域で十分に研究されてきていることもあり,本書の対象外としたため,本書の主眼は地すべりや崩壊などの斜面災害を中心とした災害地質学となった。斜面災害は,わが国のように国土が狭く,山地の多い国では地質災害の中でも最も重要なものである。中国では,地質災害は斜面災害とほとんど同義に用いられている。また,本書では地すべりや崩壊のように斜面災害を引き起こす斜面での物質の集団的な動き(マスムーブメント)を,斜面移動と総称する。

 前著「災害地質学入門」は,私が(財)電力中央研究所から京都大学防災研究所に移った翌年の1998年に,大学院理学研究科地球惑星科学専攻の授業の教材とするため,私が主に取り組んでいた地すべり・斜面崩壊などに関連する地質学および関連分野の基礎的内容を私なりにとりまとめたものであった。とはいえ,当時はこのような現象に正面から常時向き合うようになったばかりであり,基礎的な事項はかなり網羅できたにしても,実際の題材はあまり取り込まれていなかった。また,このような現象に取り組んでいる様々な分野の現状や分野の相互関係についての理解も十分ではなかったので,多方面への波及についてもあまり意識しないまま執筆したきらいが否めない。その後20年経過し,私自身,実際の災害の事例研究も数多く経験し,それに関連して基礎的な研究自体も深めることができた。私の取り組んだ様々な災害事例は,「風化と崩壊」,「群発する崩壊」,「崩壊の場所」,「深層崩壊」の4冊にとりあげ,研究背景や研究を進めた時の心の動きも含めて記述した。そして,その後,カラー写真を主とした「写真に見る地質と災害」によって,前著の白黒印刷に色を吹き込んだ。また,こう した様々な経験を通じて,入門書に追加して盛り込むべき内容にも気づいた。

 このようなことを背景に,前著「地質災害入門」に,その後得られた基礎的研究成果,また,災害事例を盛り込んで,前著を大幅に書き換えて「災害地質学ノート」と改題し,出版することにした。新たに追加した章・節は,第3章の地形に関する章と§8−5の地形観察・解析方法の節などである。第1章では,本書の基本的考え方について概説し,岩石の種類と特徴について簡単に整理する。次に第2章では,災害を考えた場合に重要な地質構造について述べる。ここでは,断層,褶曲,岩石の面構造,キャップロックなどについて地質災害との関連に注意しながら述べる。第3章では,災害を考えた場合に特に重要な地形について述べる。地形は,地質災害を記録するとともに地質災害の原因ともなり,ある意味でその変化過程が地質災害でもあるからである。第4章では,土や岩石の破壊と移動現象を理解するために,土や岩石の物理的性質,変形と強度などについて述べる。第5章では,斜面移動予備物質がどのようにして形成されていくかについて述べる。まず,災害を引き起こす最も重要な物質として粘土鉱物をとりあげ,種類や性質についてまとめる。次に,岩石および鉱物の風化,熱水変質,侵食, 海底のガスハイドレート,および異常高圧と泥火山について述べる。第6章では,斜面移動の分類のレビューを行い,次に,岩盤クリープ,地すべり,崩壊,崩落,土石流のそれぞれの特徴について述べる。第7章では,高速の斜面移動の引き金について述べる。まず,地震について,次に降雨,火山活動について述べる。第8章では,斜面移動の場所と時期の予測方法,斜面移動の計測と解析,地形の観察・分析方法について述べる。

 前著に大幅に書き加えたのは,主に,様々な地質災害の研究から得られた知見である。前著では,このあたりが通り一遍の記述になっていた。特に第5章の§5-5風化帯構造の節と§6-4の崩壊の節には,初版から後の研究成果を大幅に盛り込んだ。岩石は,それぞれの性質に応じて風化して,特有の風化帯構造を形成する。それが特に降雨による表層崩壊の原因になるのである。この2つの節は是非参照して読んでいただきたい。また,§6-4に記述した深層崩壊は,発生前に重力によって変形した斜面に発生する場合が多いことがわかってきたことから,§6-2の重力斜面変形(岩盤クリープ)の節と関連付けて記述した。

 上記のような新たな知見の他に,新しい技術の発展も大きく,それについて記述を追加した。特に§8-5の地形の観察・解析方法に関連する技術の発展は大きい。従前は,地形観察は空中写真判読によることが主体であった。そのため,樹林の下の詳細な地形を広域に把握することは困難であった。しかしながら,2000年頃から一般化した航空レーザー計測によって,1m程度の微小な地形も樹林を透かして計測することが可能になった。これは数値データであるため,それを使った計算により,様々な地形のイメージングや地形量の計測が可能になった。また,その計算のためのソフトウェアも地理情報システムをはじめとして,一般的なツールになった。以前は,ごく限られた人にしかできなかったことである。私のような素人でも少し勉強すれば必要なことは十分に計算可能になった。さらに,国内外の地形の数値データが様々な形で提供されていることや,宇宙からの地球計測技術の進展も著しいことに言及した。
 写真は,本当に重要なものを残す,あるいは追加し,一方で「写真に見る地質と災害」に掲載したカラー写真を参照できるようにした。また,筆者の前著に関連文献も含めて詳細が記述されている場合には,この前著を参照できるようにした。専門用語には,英語訳を付け加えた。

 教科書には,入門的なものでも,原理原則的なこと,一般的に認められていることを書くのが基本であり,「災害地質学入門」では,これにならった。一方,この新版では,もっと立ち入ったこと,仮説的なことも,私の独断的な判断でかなり書き込んだ。そのため,必ずしも論文として公表していないデータに基づくことも含まれている。このあたりは,読んでいただき,事実と私の考えを適宜より分けて判断していただきたく思う。これも,本書のタイトルを「災害地質学ノート」としたゆえんである。

 本書の読者としては,大学教養課程程度で地質学一般論を学習した人を想定した。地質学をほとんど知らない人でも読めるよう配慮したつもりであるが,現象の理解のために,かなり突っ込んだ記述をしたところも多い。読者によっては,説明が簡単すぎるところや,詳しすぎるところもあると思うが,本書からさらに勉強を発展させることができるよう,教科書や参考文献をできるだけ示したので参照していただきたい。紙幅の関係上,岩石の構成鉱物の種類や成分などについては省略した。また,土や岩石の物理,力学的性質について,それらの具体的試験方法についても多くは省略した。これらについては,必要に応じて,辞典や教科書を参照して頂きたい。なお,私の前著との間でできる限り図表や写真の重複を避けたが,入門書としての形を整えるために必要なものを前著から転載したことを付記する。

 2018年3月

著  者